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  [924] 題名:小堀桂一郎発言の考察  投稿者:いちのへ
3/3【討論!】どうする日本国憲法!?連続大討論Part1[桜H24/4/21]
第三部0:55分:34秒 小堀桂一郎発言
【原子力発電に関して億病であってはならない。
寧ろあれを完全に制御してみせて
『ああ、日本の核物理学/原子力工学の水準というものは非常に高いものだな』
ということを世界に認識させるということも立派な一つの戦略だと思う】

考察1:『完全な制御』という定義は、何時いかなる事態でも核燃料反応を
制御し、非常事態に於いても即時事態収拾が出来ることを指すだろう。
今週の週刊朝日によれば福島2号機では73シーベルト/時という、
浴びたら15分程度で即死する放射線量が検出されている。
この人類が初めて遭遇するレベルの放射線量を前にして
人間は成す術が無い現実を前にして【完全に制御してみせる】という言葉は
何と虚しく響くことだろうか。


考察2:小堀氏は『日本の核武装』に積極的な賛意を示し、
それを踏まえつつ上記の発言をしたわけだが、
そもそも『軍事用核使用』と『民生用原子力利用』のコア技術が
どれだけ重複し相互利用出来るというのだろうか?
今回露呈したことはアメリカが持つ『軍事用核使用』のノウハウは
『民生用原子力利用』である福島の原子炉暴走メルトダウン事故収拾には
何の役にも立たなかったことが証明された。
では反対のケースで『民生用原子力利用』のノウハウレベルが飛躍的に
高まればそれが具体的に『軍事用核使用』に寄与するだろうか?

考察3:そんなことはない。原子力発電が発明される以前に
既に原子爆弾は製造され核による東西冷戦構造が発生したのだから、
『軍事用核』と『民生用原子力』はお互いに何の関係もなく
独立して存在する事象なのである。
では何故小堀氏が『民生用原子力の完全制御』などという不可能な事を
提議するのか?と云うならば、それは国民に対するイメージ操作
(それも誤った理解)以上のものではない。



考察4:『核武装』の現実的構成を踏まえるならば、寧ろ国民に
『軍事用核』と『民生用原子力』は全く異なるコアテクノロジーであること、
それを技術的に噛んでふくめるような啓蒙がそれこそ知識人/文化人の仕事だろう。
土台、福島2号機の73シーベルト地獄を【完全に制御】出来る
『民生用原子力管理技術』が確立するのにどれだけの時が要るのか?
100年か?1000年か?10000年なのか? 
誰にも判らない不確定なタイムフレーム。
それまで我々は『核武装』をじっと待たねばならないのか?
そんな馬鹿な噺はない。
『軍事用核』と『民生用原子力』という二つのカテゴリをキッパリと
区別すること、それが核武装のファーストステップなのだ。

2012/04/24(Tue) 11:32  

  [923] 題名:それぞれ  投稿者:いちのへ
安保さん、私は異論を愉しむほうですし、考えが違うのは何故だろう?と
考えを巡らすこと自体もすきですから、どうぞ気楽に構えてください。
人間って話している間に、何を話しているのか判らなくなるときもあります。
仕事でも、人生でも、縺れて絡んだ糸とように、やっていることの意味が
判らなくなるときもある、直ぐに止めればいいのに惰性で続けてしまう。
ダラダラになる、それ自体が『人間の理性は不完全』だから仕方無いとこも
ある、男女関係などはその典型かもしれませんね、割り切れる計算の世界じゃ
ないですからね。
男女関係はそれこそ安保さんが言わんとする『好きか嫌いか』の
生理的感情が相互関係が発生した時期には支配しているわけですが、
そこには『思想』すなわち『論理』というものが無い世界だった、
ということを我々は老いてしみじみと実感するのではないでしょうか。
これはあながち悪いことでも貧しいことでもないでしょう、男女の間柄が
論理で全て定義できるようなものであったら、
なんとそれは色あせてつまらないものになるでしょうか。
恋愛なんてものは、火事場の馬鹿力がかからないと出来ない
『不条理な祭り』ですからね。
我々がドプリ浸かっている『非論理世界』は男女関係だけではない、
他の例をあげれば『愛玩動物との関係』もそうでしょうね。
他人からはとても見ていられない滑稽かつせつない惑溺の世界です。

最近、『チャイナタウン』と続編の『黄昏のチャイナタウン』を見ましたが
やはり、たとえどんなパァなオツムでろうがどうであろうが、
世の中というのは『美しい女(それも若い/あるいは脂の乗った)』を
中心として回っているのだ、という『真実』を再認識したような気持ちに
なりましたが、美しい肢体を持った人間に生まれてはこなかった自分から
そういう世界を眺めることは、かなりせつない『非論理の世界』ですね/笑。

2012/04/16(Mon) 04:48  

  [922] 題名:人こそ全て・・・と、言う他なく。    投稿者:安保
いちのへさん

好き嫌いというのは言葉の“あや”であって
そんな単純なものではないですが
認めるか認めないか・・・

これについては私の思いを理解してもらうのは難しいようなので・・・。これ以上の議論はご勘弁を

いくら言われても、何を言われても私の思いは頑なです(笑)

多分、千日手ですね

ご勘弁を



2012/04/13(Fri) 21:57  

  [921] 題名:分離の問題  投稿者:いちのへ
安保さんの考えを当方が誤解していたようでした。
あらためて920の安保さんの定義を頭に入れて少し考えてみます。
まずですね、

【人が語る「思想」「言葉」と、その人物とを切り離すことなど不可能】

これは興味深い定義だと思いますね。
いきなり私の結論を云いますと、上記の定義が『真』であれば、
人間は個の人間存在、それも限られた時間内でしか存在出来ない、
それを超えて『普遍的』な価値を持つもの、『言葉によって再現出来る真理』
というものを持ち得ないように思うのですね。

これの端的な例としては、論理思考の結晶の一例である、物理/科学/化学
というものが成立しなくなる筈ですが、実際はそんなことは無いわけです。

物理/科学/化学などの価値というものは『好き嫌い』から判断する価値
とはどのように違うのか?はちょっと難しいので一旦置きますが、
いづれ物理/科学/化学などに価値が有る、とするその根本には
『人間存在=人間が生きることに価値がある』という基本的な事前了解が
そこにあると思うのですね。

また違う側面でも
【人が語る「思想」「言葉」と、その人物とを切り離すことなど不可能】
が『真』であるならば、我々は如何なるし恋/言葉も、それを語った人を
なんらかの方法で知り、知りえた限定された情報によって『好きか嫌いか』
を先ず判定しないことには、その人が示した『論理/道理』を評価することが
出来ないということになると思うのですね、ロジックからいうと、ですが。

しかし、そんなことはない、我々は新聞の社説や週刊誌/オピニオン雑誌の
書き記された言葉を読んで(誰が書いたかは知らない、知っていても実際は
面識も無いのでその人の人となりは知らない、あるのは漠然とした好き嫌いの感情だけ、
その感情も何故と問われたならば論理的には説明できない感情)
かなりハッキリした評価をすぐさま下していると思うのですが、
その評価基準というのは、やはり文章に示された道理に筋が通った納得できる
ものかどうか?をごく自然に判断基準の物差しとしているように思うのですね。

追加で個人的な感情で自分を観察してみますと、自分の好き嫌いの感情で
特定人物の思想言論というものを評価して仕舞っている自分にハッと
気がつくと、非常に自分自身に野卑なもの、知性未発達を感じ、羞恥を
覚えるのですね。
自分に客観能力が無い/足りないということを自覚することは
ものすごく恥辱を感じるわけです。タダの自分の感性の噺なんですが.......。

2012/04/13(Fri) 17:33  

  [920] 題名:人こそ全て・・・と、言う他なく。     投稿者:安保
いちのへさん

何度も言っているつもりですが・・・。

私の言う「人こそすべて」というのは、「人格識見に優れ、品行方正」とはまったく関係ないですよ

その人物を「好きか嫌いか」或いは、その人物を「認めるか認めないか」ということです。

しかし嫌悪する「菅」「鳩山」「小沢」「田中真紀子」が、「便利な物」を発明したら、その「物」は、積極的ではないにしろもしかしたら使うかも分かりません。(笑)

「思想」や「言葉」は、私にとっては「物」と違いますね。

私に言わせれば・・・。

『論理/道理』で「思想」を評価する時点で、その人物をも認めているということだと思います。

少なくとも私はそうです。

過去・現在の人物とも同じです。

人が語る「思想」「言葉」と、その人物とを切り離すことなど不可能です。
そんな「思想」「言葉」とは一体なんぞや?ですね。

2012/04/13(Fri) 09:06  

  [919] 題名:知の巨人と知の神  投稿者:いちのへ
吉本隆明を戦後の知の巨人と評価する向きもあるようです。
私は読んでいないのでわからない。その上での薮睨みですが........。
吉本にとって先の『戦争』というものは、大きいテーマだろうと思う。
彼は『戦争』をどう咀嚼したのだろうか?と。
(彼が『戦争』を本当に体験したといえるかどうかは一旦置いて)

ここで急に出て来るのがヘレン・ミアーズ。
ミアーズ女史といえば『アメリカの鏡・日本』
この著作は知性というものの極北を示す著作であると思いますね。
真っ暗闇の中を、足を差し出すその行き先をあたかもサーチライトで
意のままに照らし出すような明晰さ。
こういう驚嘆すべきレベルの知性を、白人の、それも女性が示す。
テーマは日本は何故戦争に踏み込んだのか? 
徹底的に日本の言い分/論理に自分の立場を置いて考えてみるという
知的冒険。
この著作が日本人以外の人間によって書かれたということにページを
めくる度に溜息が出て来るのですね。

吉本が『知の巨人』ならば、ミアーズはさしずめ『知の神』という
尊称を捧げたくなるくらいなわけです。このミアーズの著作が指し示す
知的探検が『巨大台風』にならなかった戦後の言論界というものは、
一体何だったのだろうか?連中は何をやっていたのだろうか?と。
かろうじて、数歩遅れて歩いてきたのは『敗者の戦後』を記した
入江隆則あたりではないだろうか?と。

吉本隆明の著作というのは、どれだけ英訳されて外国人に読まれて
いるのだろうか?
翻訳されたから著作の価値が増すというわけではないのだけれども。

ミアーズを読むと、日本が戦った相手とは何なのか?が見えてくる。
マニフェスト・デスティニィと白人はいうけれど、それの意味はほとんど
『自らを神と看做し信じる人間』達との戦いだ、という印象。
だから、西尾幹二が、対米戦争を『宗教戦争』だと云うのも理解できる。


2012/04/13(Fri) 05:36  

  [918] 題名:分離評価の利点  投稿者:いちのへ
安保さんの、『評価は人が基準』ということについて少しだけ述べますと、
『人=人となり=人格』というものをその人が提示した考え『思考/思想』の
評価基準にすることは、ある種の欠点のようなものがあると思うのです。

それが何かというと、評価基準を人間の人格とするならば、死んだ人ならば
それもまだ善いでしょうが、生きている人間はそれこそ不完全なもの、
不完全な理性を抱えて生きているわけです。

ですから、評価というものを人格に置くと、我々は結局最後には対象に
落胆しやがては侮蔑に終わって仕舞うことを繰り返すという、惨めな
人生になって仕舞う可能性が高いと思うのですね。
だって、我々は、自分の親であろうが、師であろうが、妻であろうが、
『フン、何程のものだ』という気持ちを抱くときがありますからね。
これは率直な話が、相手の人格を侮蔑嘲笑しているわけです。

ところが、人格と切り離し、思想そのもの、それも思想を構成する本質の
『論理/道理』というものを評価の基準とするならば、我々は人間そのもの
あるいは人間の人格を侮蔑嘲笑する必要はないわけです。
単に、因数分解をするような作業で対象をクールに評価すればいい。

吉本隆明の私生活の様=人格を少し調べて知れば、なにかそれほど
大層に評価するものは無いように思える。判らない。
しかし吉本の思想を評価するだけの『INPUT』は残念ながら当方は
経験していない。時代が違う、というところもあるかもしれない。
ただ、当方が評価出来るINPUTは、最晩年の『核武装』に関するコメント、
それは極部分的な発言で、そんなパートは吉本の存在を意味づけた
核心的な思想ではないのだろうが、核武装に対しての高踏的無責任さを
感じる発言には、この領域では、この人の論は駄目だ、という、それこそ
『論理を評価基準とした』判断で計っていいのではないか、と思っていますね。

ただ、
【吉本が亡くなったことで名実ともに戦後が終わった】
などというフレーズを読むと、私はその能天気な無責任さに唖然としますね。
寧ろ一種の怒りを覚えるくらいです。
この日本の現状をみて、どこが『戦後が終わった』なのか?
それこそ、評論などという一範疇の事柄が、世界の全てであるような
自惚れた/夜郎自大な自惚れ/自分が生きる領域がさも高級であるかの
如き田舎者丸出しのコメントに、憂鬱な嫌悪を感じるのですね。
『言論の世界で戦後が’終わった』って、じゃ、アンタらGHQの検閲の時代、
一体ナニをしてたの?と思うわけです。同じ肌の、同じ言語を喋る人間に
対して口上を文字にして売って生きていただけじゃないのか、日本の戦後と
いうのはアメリカという外国に戦争をして負けたことを戦後と云うのだろう、
そのことを抜きにして『戦後は終わった』などと、まったく総括が出来て
いないじゃないか、と思うわけですね。
日本人が日本人に講釈を垂れたくらいでナンボのもんじゃい、と
思う所がありますね。
講釈を足れるなら、自分が隷属している御主人様にタテ突くくらいじゃ
なきゃ、男の人生、ツマラナイんじゃないの?なんて思っているわけです。


2012/04/12(Thu) 17:35  

  [917] 題名:偉大な思想家?  投稿者:安保
初めて吉本を知りました。

恥ずかしながら吉本隆明のことは、その人物の存在さえ知りませんでした。
二女“よしもとばなな”の名前だけははしっていますが・・・中味は知りません。


下記ネット頁によれば
http://www.47news.jp/47topics/e/226748.php

////////////////////////////////////////////////

【吉本隆明氏死去】 戦後思想に圧倒的な影響 時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想


◎戦後が終わった 
 
 「吉本隆明20+ 件1968」の著書がある鹿島茂・明治大教授の話 貧困を大義名分に「金権ブルジョア」を攻撃していた1950年代の世界の左翼陣営で、吉本さんはそうした手法が貧者の足の引っ張り合いを招くと厳しく批判した。知識の習得など個人的な努力や工夫で貧しさを抜け出すことを肯定する「自立」の考えは、後の思想的潮流を圧倒的に先取りしていた。吉本さんがいなければ、日本はまともな国にならなかった。亡くなられたことで名実ともに戦後が終わった。

///////////////////////////////////////////////

『戦後思想に圧倒的な影響 時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想』

『吉本さんがいなければ、日本はまともな国にならなかった。』

一冊の本を読んだこともなく、私が無知なだけかも・・・ですが、私の周囲にも知らない者がいます
私たち世代で知らない者が少しでもいる人物の「思想」が、上記の評価をされることに疑問を持ちます

『亡くなられたことで名実ともに戦後が終わった。』
↑私は吉本氏を知らないので、上記のような言葉は、言葉の軽さを思わずいいられません。
そんなにも影響力のある偉大な人物だったのでしょうか?

そんな「思想」とは一体何のか?と思います。

2012/04/12(Thu) 07:31  

  [916] 題名:水島社長の新説批判  投稿者:山桜
 
 水島氏は『直言極言』において氏が三島と吉本の著述をよんで、『日本の戦後体制からの脱却』すなわち『脱戦後』という思想を教えられたという趣旨を語っていた。

 しかし三島ならともかく吉本の立場は一貫して『脱戦前』つまり戦時からの脱出であって、戦後にやっと自らの居場所を獲得したのが実情だから、『三島と吉本とはコインの裏表のような関係でともに脱戦後を目指した』という水島氏の話には疑問がのこる。

 さらに氏は持論の『三島と吉本とのペアの関係』の意味を三島の時間・歴史性志向と吉本の空間性追求というふたつの類型で対比する。
 
 そして吉本の『空間の充実・拡大』は、カール・ブッセの「山のあなたの空とおく」や大航海時代の新航路発見者たちがあこがれた近代主義の思想に通じる態度であると断じた。  
 かくて青年水島はここで吉本と袂を分かち、三島の『歴史性』の道をたどることになったというのだ。自己の歩んできた思想的過去をこのように偉い人物のなんらかの事象と比べながら回顧することはしばしば散見されるところではある。そして水島氏の『直言極言』もまたこの類のものというべきである。

 ところで吉本が空間の充実・拡大を指向した作家であるという新説はどこからきたのだろうか?さきの発言によれば『涙が涸れる』のなかの「遠くまで行くんだ」という詩句によってである。しかし吉本の詩を探せばこういう詩句に矛盾する意味の表現はいくらでもあり得よう。管見では吉本が海外へ出たのは朝鮮へ一度出たくらいで、かれはそうした現地探訪=空間にはあまり関心をよせていない。参考までにさきにふれた『暫定メモ』の一節を引いておこう。


※サルトルを研究すればサルトルにかぶれ、メルロオ・ホンテイを研究すればメルロオ・ホンテイにかぶれる。サドを研究すればサデイズムにかぶれ、バタイユを読めば『死とエロス』のつながりとやらにかぶれる。これは『空間』かぶれである。

もし吉本が「空間の充実・拡大」を指向したとするならば「空間かぶれ」などという自らを罵倒する意味の言葉をつかうはずがなかろう。水島説の根拠を知りたいものである。

2012/04/11(Wed) 20:58  

  [915] 題名:きれぎれですが。。。  投稿者:山桜
三島の自決に対する吉本の文章をすこしでもまともにながめれば戦後体制に対する吉本の考えの輪郭がかなりはっきりと浮かんでこよう。すなわち吉本隆明という思想家の頭脳の緻密な構造が想像されるはずである。これは単純に『あいつは左翼である右翼である』とレッテルを貼ることで政治を納得しているような人には困った存在だろう。

吉本はおなじ『メモ』においてこういうこともかいています。かれが戦中もっていた思想が皇道派的なものであったことがこれでもわかります。

※三島は生きているときも大向こうをあてにして、ずいぶん駄本をかいてサービスしている。これは満ちたりた分限者か成り上がった苦学生のつかう方法である。外のどこが似ていても、三島由紀夫と2.26の青年将校たちとはこの点で似ていない、あの将校たちの背後には、飢饉で困窮した農民たちの現実的な姿があり、その姿はかれらの部下の兵士たちの故郷の平野の中にあった。三島の思想にも政治行為にもそんなものはひとかけらもない。いわば宮廷革命的な発想である。比ゆ的にいえば『蘇我氏に対する物部氏の反動革命』などになんの意味があるか。私たちが粉砕したいのは、それら支配のすべてである。

2012/04/11(Wed) 09:52  

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